東京の中心、大手町にひっそりと佇む「将門塚」。
ここは日本の歴史上、最も恐れられた人物の一人、平将門公の首が祀られている場所です。
この記事では、将門塚には何があったのか、平将門の首が飛んだのはなぜか、そして平将門の首を切った人は誰なのかといった歴史的背景から、東京にある日本三大怨霊や、日本の最強の悪霊は誰かという伝説にまで踏み込みます。
さらに、行かない方が良いと言われる人の特徴や、関連する神田明神へ行ってはいけないと言われる理由も解き明かし、噂の真相に迫ります。
【この記事の内容】
・平将門が日本三大怨霊と恐れられる理由
・参拝を避けた方が良いとされる人の具体的な特徴
・将門塚や神田明神を訪れる際の正しい心構え
将門塚に行ってはいけない人の噂とその背景

平将門の首が飛んだのはなぜ?
平将門の首を切った人は誰?
東京にある日本三大怨霊は?
日本の最強の悪霊は誰?
行かない方が良いと言われる人
将門塚には何があった?
将門塚は、平安時代中期の武将、平将門(たいらのまさかど)の首級を埋葬した場所と伝えられる塚です。
承平天慶の乱の末、天慶3年(940年)に討ち取られた将門の首は、京都の七条河原で晒されました。
しかし、その首は三日後に故郷である関東を目指して白光を放ちながら飛び去り、現在の東京都千代田区大手町一丁目にあった観音堂の前に落下したという伝説が残されています。
この地に落ちた首を、村人たちがその強大な怨念を鎮めるために塚を築いて手厚く祀ったのが「将門塚」の起源とされています。
ここは古くから江戸の霊地として人々の畏敬の念を集めてきました。
近代的な高層ビルが林立する日本経済の中心地、大手町のオフィス街にあって、この一角だけが時を止めたかのような特別な空気を放っています。
東京都指定の旧跡
将門塚は歴史的な価値も高く評価されており、昭和5年(1930年)には「将門塚」として東京都の旧跡に指定されています。(参照:東京都指定文化財一覧)
関東大震災後の大蔵省庁舎建設や、第二次世界大戦後のGHQによる区画整理など、歴史上幾度となく撤去の危機に瀕しました。
しかし、その度に計画関係者に不可解な事故や死が相次いだとされ、計画はことごとく中止に追い込まれました。
こうした経緯から「日本最強クラスの祟りの地」として恐れられ、現在に至るまで大切に護られています。
平将門の首が飛んだのはなぜ?
平将門の首が京都から関東まで数百キロの距離を飛んで帰ったという超常的な伝説は、彼の朝廷に対する凄まじいまでの無念と、民衆や故郷への強い執念が原因であると語り継がれています。
桓武天皇の五世孫という高貴な血筋でありながら、一族の所領争いをきっかけに朝廷と対立。
ついには自らを「新皇」と名乗り、関東に武士による独立国家を打ち立てようとしましたが、その野望はわずか二ヶ月で潰えました。
自分の体を探し続ける平将門
京都で晒し首にされた後もその怒りは鎮まることなく、夜な夜な目を見開き「斬られた我が五体はどこにある。ここに来い。首をつないでもう一戦しようぞ」と叫び続けたといいます。
そして三日後、まばゆい光を放ちながら故郷の空へ向けて飛び去ったとされています。
この常人離れした逸話は、将門の怨霊がいかに強力無比なものであったかを物語り、後世の人々に強烈な印象を与えました。
この伝説こそが、将門公を単なる歴史上の敗者ではなく、死してなお故郷を想い続ける強力な霊的存在、すなわち人々に祟りもすれば、篤く祀れば守護神ともなる「御霊(ごりょう)」として神格化させる決定的な要因となったのです。
御霊信仰とは、非業の死を遂げた人物の怨霊を鎮魂し、その強力な霊力を平和利用することで、疫病や災害から人々を守ってもらおうとする日本古来の信仰です。将門公はその代表的な存在といえるでしょう。
平将門の首を切った人は誰?
平将門を討伐し、その首を切った中心人物は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)と平貞盛(たいらのさだもり)の二人です。
特に平貞盛は将門の従兄弟にあたり、彼らの父親の代から続く一族間の根深い所領争いが、将門の乱(承平天慶の乱)が勃発する大きな原因の一つでした。
衝突の原因
朝廷から将門追討の官符(命令書)を受けた藤原秀郷と平貞盛の連合軍は、下総国(現在の茨城県坂東市)で将門軍と激突。
緒戦は将門軍が優勢でしたが、にわかに天候が変わり風向きが逆転すると、藤原秀郷が放った矢が将門の額を正確に射抜き、彼は壮絶な戦死を遂げたと伝えられています。
この戦いの後、将門の首は勝利の証として京都へ送られ、都大路で晒されることになりました。
討伐者との歴史的因縁
将門を直接討ったのが「藤原氏」であるという事実は、後述する「行ってはいけない人」という伝承に極めて深く関わってきます。
千年以上前の歴史的な敵対関係が、現代における信仰やタブーにまで影響を及ぼしている、非常に興味深い事例です。
この勝利により、藤原秀郷は鎮守府将軍に任じられ、武士としての名声を不動のものとしました。
俵藤太(たわらのとうた)の別名でも知られ、数々の伝説を残す英雄として語り継がれています。
東京にある日本三大怨霊は?
日本では古来より、政争に敗れたり、無念の死を遂げたりした有力者の魂が「怨霊」となり、天変地異や疫病といった災いを引き起こすと信じられてきました。
その中でも特に強力で、後世に多大な影響を与えたとされるのが「日本三大怨霊」です。一般的に、以下の三柱が挙げられます。
| 怨霊 | 人物 | 概要 |
|---|---|---|
| 平将門(たいらのまさかど) | 平安時代の武将 | 朝廷に大規模な反乱を起こし討伐される。その怨念は「首塚」を中心に、数々の祟り伝説を生んだ。 |
| 菅原道真(すがわらのみちざね) | 平安時代の貴族・学者 | 藤原氏の讒言により大宰府へ左遷され失意のうちに死去。その後、都で清涼殿落雷事件などの災厄が相次ぎ、天神様(雷神)として祀られる。 |
| 崇徳天皇(すとくてんのう) | 平安時代の第75代天皇 | 保元の乱に敗れ讃岐国へ流罪。憤死の際に「日本国の大魔縁となり、皇を民に、民を皇になさん」と誓ったとされ、日本史上最強の怨霊とも言われる。 |
この三柱の中でも、物理的に日本の首都(江戸・東京)の中心地に鎮座し、現代に至るまで都市開発計画に直接的な影響を与え続けているという点で、平将門は特に異質な存在感を放っています。
菅原道真は京都の北野天満宮や福岡の太宰府天満宮に、崇徳上皇は京都の白峯神宮に祀られていますが、将門塚のように大企業の超高層ビルに囲まれたビジネスの最前線に「禁足地」として存在し続けている例は他に類を見ません。
日本の最強の悪霊は誰?
「最強の悪霊は誰か」という問いに対する絶対的な答えは存在しませんが、平将門はその筆頭候補として間違いなく名前が挙がる存在です。
その最大の理由は、怨霊としての影響力が一過性のものではなく、千年以上の長きにわたって現実社会に作用し続けている点にあります。
菅原道真は後に学問の神様として人々の崇敬を集め、崇徳天皇も鎮魂の末に神として祀られています。
しかし、将門公の「祟り」の伝説は、大正時代から戦後のGHQ統治時代、そして現代に至るまで、実際に死者や事故を伴う具体的な事件として語り継がれているのが大きな特徴です。
将門が「最強」候補とされる理由
影響の持続性:死後1000年以上経った現代でも、その存在が畏怖されている。
祟りの具体性:噂話だけでなく、死者が出た事故として記録や証言が残っている。
現実への影響力:日本の首都の中心地で、都市開発を物理的に阻止してきた。
文化的影響:荒俣宏のベストセラー小説『帝都物語』などで日本の“守護霊”として描かれ、大衆文化にまでそのイメージが浸透している。
武士として初めて中央政権に本格的な反旗を翻し、民衆の支持を得ながらも無念の最期を遂げた将門の怒りは、他の怨霊とは一線を画すほどの激しさとリアリティを持っていると信じられているのです。
行かない方が良いと言われる人
将門塚に「行ってはいけない」「行かない方が良い」と言われる人には、いくつかの明確な特徴があるとされています。
これらは千年以上の時を経て形成された歴史的背景やスピリチュアルな言い伝えに基づくものであり、科学的根拠はありませんが、古くから人々の間で固く守られているタブーです。
特に注意が必要とされる人の特徴
成田山新勝寺に縁がある人
千葉県成田市にある成田山新勝寺は、将門の乱を平定するため、寛朝大僧正が不動明王を奉じて祈祷を行った地に建立された勅願寺。
つまり、創建の目的からして将門公とは明確な敵対関係にあるため、成田山を熱心に信仰する人や、成田山のお守りを持っている人が将門塚を訪れると、ご利益が相殺される、あるいは良くないことが起きると強く信じられている。
苗字に「藤」がつく人
前述の通り、将門を討伐したのが藤原秀郷であったことから、当時の朝廷の中心勢力であった藤原氏の末裔とされる「藤」の字(藤田、佐藤、伊藤、加藤など)が苗字につく人は、参拝を避けるべきだという言い伝えがある。
不敬な気持ちやネガティブな感情を抱いている人
将門塚は日本有数の強力な霊的エネルギーを持つ場所とされている。
そのため、肝試しや冷やかしといった不敬な態度、あるいは誰かへの強い恨みや妬みといった負の感情を抱えたまま訪れると、その強力なエネルギーに精神が悪影響を受け、不運を呼び寄せてしまう可能性があるとされている。
これらの言い伝えは、将門公の強大な御霊への畏敬の念から生まれたものと考えられます。
参拝するかどうかの最終的な判断は個人の自由ですが、このような歴史的背景とタブーが存在することを深く理解しておくことが何よりも大切です。
将門塚に行ってはいけない人とされる祟りについて

神田明神へ行ってはいけないと言われる理由
参拝する際に心得るべきこと
現代における将門塚への信仰
将門塚の祟りとして伝わる話
将門塚の「祟り」は、単なる迷信や噂話として片付けられないほど、具体的で有名な話が二つあります。
これらは当時の記録や多くの証言が残っていることから、将門公への畏敬の念を現代においてさえ決定的なものにしています。
大正時代の不審死と鎮魂祭
1923年(大正12年)に発生した関東大震災により大手町一帯は壊滅的な被害を受けました。
その復興計画の中で、当時の大蔵省が敷地を整理するため将門塚を事実上破壊し、その跡地に仮庁舎を建設しました。
すると、工事を指揮した人物や省の職員、さらには当時の大蔵大臣であった早速整爾氏をはじめ、関係者14名が2年ほどの間に次々と不審な死を遂げたり、怪我をしたりしたのです。
これを将門の祟りだと省内で恐れる声が上がり、ついに仮庁舎は取り壊されました。
そして、1928年(昭和3年)には鎮魂碑が建立され、大蔵省主催で盛大な鎮魂祭が執り行われる事態となりました。
GHQを撤退させた重機事故
第二次世界大戦後、日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)が、周辺一帯を接収し、駐車場を造成するためにブルドーザーで首塚を更地にしようとしました。
しかし、作業を進めていたところ、ブルドーザーが突然原因不明の横転を起こし、運転手が投げ出されて死亡するという痛ましい事故が発生しました。
それまでも作業員が怪我をする事故が頻発していたため、調査したところ、ブルドーザーの前に将門塚の石碑が見つかり大騒ぎとなりました。
最終的に、地元町内会長らの陳情を受けたGHQは、この地の持つ特別な意味を理解し、計画を完全に断念しました。
これらの決して無視できない出来事が、「将門塚には絶対に手を出してはならない」という暗黙の了解を、現代社会にまで強固に根付かせることになったのです。
神田明神へ行ってはいけないと言われる理由
「神田明神へ行ってはいけない」という話も聞かれますが、その根拠は将門塚と全く同じ歴史的背景にあります。
東京を代表する大社である神田明神は、平将門命を三柱の御祭神の一柱(三之宮)として非常に手厚く祀っている神社だからです。
神田明神と平将門の切っても切れない深い関係
神田明神はもともと、現在の将門塚がある場所に鎮座していました。
将門の死後、その周辺で天変地異や疫病が頻発したため、これを将門の祟りだと恐れた人々を救うべく、時宗の真教上人が手厚く供養しました。
そして延慶2年(1309年)、将門の御霊を正式に神田明神に合祀したのが始まりです。
後に徳川家康の江戸城拡張に伴い神社は現在の場所へ遷座しましたが、将門公は「江戸総鎮守」の神様の一柱として、徳川将軍家をはじめ多くの武士や庶民から篤い信仰を受けました。(参照:神田明神公式サイト 御由緒)
このように、神田明神は平将門公と一心同体の存在と言っても過言ではありません。
そのため、将門塚と同様に、成田山新勝寺と縁のある方や、藤原氏にゆかりのある方は参拝を避けた方が良いという古くからの言い伝えが、今なお固く守られているのです。
明治時代には、明治天皇が行幸するにあたり逆賊である将門が祀られているのは畏れ多いとして、一時的に祭神から外された歴史もありますが、戦後には氏子たちの強い願いにより再び祭神として復帰しています。
参拝する際に心得るべきこと
これまでの話を踏まえると、将門塚は非常に恐ろしい場所だと感じてしまうかもしれません。
しかし、最も大切にすべきは、言い伝えに過度に縛られることではなく、参拝者自身の「心構え」です。
平将門は、朝廷に逆らった逆賊としての一面だけでなく、関東の民衆を圧政から解放しようとした英雄としての一面も持っています。
そのため、敬意を払い、誠実な気持ちで向き合う人には、勝負運や厄除けの強力な守護神となってくれると篤く信じられています。
将門塚を訪れる際は、以下の点を心掛けることが強く推奨されます。
内面の状態が何よりも大事
何よりも大切なのは、感謝と敬意の心です。
ここは観光地やパワースポット巡りの一環として気軽に訪れる場所ではありません。
静かに手を合わせ、千年以上もの間この地を守り続ける御霊に思いを馳せる、真摯な姿勢が求められます。
願い事をするよりも、まずは「お参りさせていただきます」というご挨拶と、日頃の平穏への感謝を伝えるのが良いでしょう。
結局のところ、「行ってはいけない人」とは、歴史的背景に該当する人々以上に、こうした敬意を欠いた心を持つ人のことを指すのかもしれません。
現代における将門塚への信仰
千年以上の時を経た今もなお、将門塚への信仰は非常に篤く、人々の手によって大切に受け継がれています。
特に、周辺の世界的な大企業や金融機関に勤めるビジネスパーソンからの信仰が厚いことで広く知られています。
塚の周辺は常に塵一つなく清潔に保たれ、美しい献花が絶えることはありません。
これは、近隣の企業が中心となって結成した「史蹟将門塚保存会」によって、日々の維持管理が徹底して行われているためです。
企業のトップが重要な商談の前に毎日の参拝を欠かさないという話もあり、ビジネスにおける強力な勝負運や厄除けの神様として、多くの人々の心の支えとなっています。
現在は供物禁止
かつては、将門の首が「帰ってきた」という伝説と「無事に帰る(カエル)」の語呂合わせから、蛙の置物を奉納する風習が盛んでした。
左遷された社員の栄転や、行方不明者の無事を祈願する人々が置いていったものですが、現在は管理上の理由から、線香や供物、物品の奉納は一切禁止されています。参拝の際は賽銭のみとし、静かに手を合わせるようにしましょう。
このように、将門公は祟り神としての一面で恐れられる一方で、誠実な祈りには応え、窮地を救ってくれる頼もしい守護神としても深く信仰されているのです。
その二面性こそが、将門公が人々を惹きつけてやまない魅力といえるでしょう。
まとめ:将門塚に行ってはいけない人と言われる真意

この記事のまとめになります。
・苗字に「藤」がつく人も討伐者である藤原氏との因縁から避けるべきとされる
・神田明神も将門を篤く祀るため同様の理由で禁忌が語られている
・最も大切なのは不敬な心や肝試しのような軽い気持ちを持たないこと
・感謝と敬意の心を持って真摯に参拝すれば強力な守護神となる
東京の中心、大手町の一等地に今も静かに現存する「将門塚」は、平安時代に朝廷へ反旗を翻した平将門の首を祀る神聖な場所です。
将門は藤原秀郷と平貞盛によって討たれましたが、その最期は朝廷への強い無念と故郷への深い執念に満ちていたとされます。
その思いの強さから、京都で晒された首が故郷の関東まで飛んで帰ったという伝説が生まれ、討伐者との歴史的因縁と共に後世へ語り継がれていきました。
現代においてもその存在は篤く敬われ、周辺企業によって「史蹟将門塚保存会」が結成され、手厚い管理が続けられています。
結論として、「行ってはいけない人」とは、歴史的な因縁を持つ人々以上に、不敬な心や興味本位で訪れる人を指すと言えるでしょう。
参拝は個人の自由ですが、その背景を深く理解し、真摯な心で臨むべき場所なのです。