元横綱・琴桜(琴櫻)の突然の訃報に、多くの相撲ファンが驚きました。
この記事では、「琴桜(琴櫻)の死因は何だったのか?」という疑問に焦点を当て、その詳しいプロフィールや「猛牛」と称された現役時代の活躍、そして晩年の闘病生活について、詳細な情報と共に分かりやすく解説していきます。
【この記事の内容】
・「猛牛」と呼ばれた現役時代の輝かしい功績
・指導者として多くの名力士を育てた手腕
・多くの弟子やファンに愛された晩年の様子
琴桜(琴櫻)の死因と突然の訃報

猛牛と称された琴桜のプロフィール
琴桜のこれまでの活躍と輝かしい功績
遅咲きと呼ばれた横綱昇進までの道のり
引退後は指導者として多くの関取を育成
第53代横綱・琴桜(琴櫻)の死因は病気
大相撲の第53代横綱である琴桜、先代佐渡ヶ嶽親方の鎌谷紀雄(かまたに のりお)氏は、2007年8月14日午後6時19分に亡くなりました。
享年66歳という、あまりにも早すぎる旅立ちでした。
日本相撲協会からの公式発表によると、直接の死因は「敗血症による多臓器不全」とされています。
敗血症は、感染症によって体の免疫機能が暴走し、自身の臓器を攻撃してしまう危険な状態です。
琴桜は長年の闘病生活の末、千葉県松戸市の千葉西総合病院で静かに息を引き取ったと報じられています。
【琴桜の訃報概要】
逝去日:2007年8月14日(火)
死因:敗血症による多臓器不全
享年:66歳
場所:千葉西総合病院
7月の名古屋場所後には、愛弟子の琴光喜が大関に昇進し、その伝達式には車椅子ながらも元気な姿を見せていただけに、その訃報は相撲界だけでなく、日本中のファンに大きな衝撃と悲しみを与えました。
猛牛と称された琴桜のプロフィール
琴桜は、その激しい取り口から「猛牛」という異名でファンに親しまれ、土俵を大いに沸かせました。
ここでは、彼の基本的なプロフィールと、その人物像に迫る情報を表でご紹介します。
| 四股名 | 琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ) | 
|---|---|
| 本名 | 鎌谷 紀雄(かまたに のりお) | 
| 愛称 | 猛牛 | 
| 生年月日 | 1940年11月26日 | 
| 出身地 | 鳥取県倉吉市 | 
| 所属部屋 | 佐渡ヶ嶽部屋 | 
| 身長・体重 | 182cm・150kg | 
| 横綱在位 | 1973年3月場所~1974年5月場所 | 
四股名の由来
「琴櫻」という四股名は、師匠である佐渡ヶ嶽(元小結・琴錦)の「琴」と、故郷・鳥取県倉吉市にある桜の名所「打吹公園」の「桜」を組み合わせて名付けられました。故郷への深い愛情が込められた四股名です。
鳥取県で警察官の家庭に生まれた琴桜は、もともとは柔道でその才能を遺憾なく発揮していました。
中学生で特例の段位を認められるほどの腕前でしたが、その才能を見出した先代の佐渡ヶ嶽親方からの熱心な勧誘を受け、相撲界への入門を決意します。
頭から激しくぶつかる「ぶちかまし」と、一切引かない猛烈な押し相撲が彼の代名詞となり、「猛牛」の名を轟かせました。
琴桜のこれまでの活躍と輝かしい功績
琴桜の相撲人生は、数々のドラマと輝かしい功績に彩られています。
1959年に初土俵を踏み、柔道で培った足腰の強さを武器に、着実に番付を駆け上がっていきました。
幕内での成績は、優勝5回を誇ります。
特に大関としての在位期間が長く、32場所という長い道のりを経て横綱の座を掴み取りました。
これは年6場所制が定着して以降、当時としては最年長での昇進記録であり、彼の不屈の精神を象徴する偉業です。
【主な幕内成績】
幕内最高優勝:5回(1968年7月、1969年3月、1972年11月、1973年1月、1973年7月)
三賞受賞:殊勲賞4回、敢闘賞2回
幕内在位:65場所
幕内通算成績:553勝345敗77休(勝率.616)
(参照:日本相撲協会力士プロフィール)
昭和の大横綱・大鵬には初顔から18連敗を喫するなど苦戦しましたが、1969年以降は互角に渡り合うなど、決して諦めない闘志で数々の名勝負を繰り広げました。
その功績は、記録だけでなく、多くのファンの記憶にも深く、そして鮮やかに刻まれています。
遅咲きと呼ばれた横綱昇進までの道のり
琴桜の横綱昇進は、32歳2ヶ月という年齢でした。
当時の角界ではベテランとされる年齢での昇進だったことから、「遅咲きの桜、ようやく満開」あるいは「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれ、多くの人々に希望と勇気を与えました。
大関在位は32場所に及び、これは現在でも史上1位タイの記録です。
その道のりは決して平坦ではなく、何度も綱取りのチャンスがありながら、怪我や不調で涙を飲むことも少なくありませんでした。
特に、角番(大関陥落の危機)を3度も経験するなど、まさに崖っぷちからの復活劇でした。
無気力相撲の警告を受けるなど、精神的にも追い込まれた時期もありましたが、彼は決して土俵を去りませんでした。
生まれたばかりの長女の存在を励みに奮起し、1972年の11月場所と翌1973年の1月場所で見事に2場所連続優勝を果たし、文句なしで横綱昇進を決めました。
年齢的な不安を指摘する横綱審議委員会の声もありましたが、その圧倒的な強さと気迫で、すべての不安を一掃したのです。
諦めずに努力を続ければ、必ず道は開けるということを、その生き様をもって示した偉大な横綱でした。
その姿は、後進の力士たちにとって、今もなお大きな目標となっています。
引退後は指導者として多くの関取を育成
1974年に現役を引退した琴桜は、間もなく年寄「佐渡ヶ嶽」を襲名し、部屋の師匠として第二の相撲人生をスタートさせました。
指導者としての手腕は非常に高く、常に30~40人の弟子を抱える角界屈指の「大所帯」を築き上げ、部屋の黄金時代を牽引しました。
人懐っこい笑顔と情熱的な指導で知られ、有望な若者がいると聞けば、日本全国いかなる僻地へも自ら足を運んでスカウトしたと言われています。その指導のもとで、数多くの名力士が誕生しました。
【育てた主な関取】
大関:琴風、琴欧洲、琴光喜、琴奨菊
関脇:琴錦、琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽親方)、琴富士、琴ヶ梅
小結:琴稲妻
その他、琴椿、琴別府など、多くの人気力士を輩出
稽古の厳しさは角界でも有名で、「力士は稽古だ」が口癖でした。
50歳を過ぎても自らまわしを締めて弟子に胸を出すなど、その指導熱心な姿は定年退職するその日まで変わることはありませんでした。
厳しさの中にも深い愛情があり、弟子たちからは父親のように慕われていました。
猛牛と呼ばれた琴桜の死因と晩年

晩年は糖尿病など複数の病との闘い
弟子の大関昇進を見届けた最後の仕事
突然の訃報に悲しむ弟子や関係者
弟子に継がせたかった「琴桜」の四股名
亡くなる直前の病状と入院生活
琴桜が亡くなる直前、関係者によると亡くなる週から体調不良を訴え、千葉県松戸市の病院に入院していたとされています。
病院で手術を受けたものの、容態が急変したのは亡くなる当日の8月14日の朝でした。
最期は、娘婿である琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽親方)夫妻をはじめとする家族や、部屋付きの親方夫妻に見守られながら、静かに息を引き取ったと言われています。
約6時間後には、遺体が千葉県松戸市の佐渡ヶ嶽部屋へと無言の帰宅を果たし、夏巡業の残り番を務めていた力士たちが師匠を出迎えました。
7月25日の琴光喜の大関昇進伝達式では元気な姿を見せていただけに、このあまりにも早い容態の悪化と突然の別れは、周囲にとって信じがたい出来事だったのです。
晩年は糖尿病など複数の病との闘い
琴桜の晩年は、まさに病との壮絶な闘いの日々でした。
報道によると、糖尿病のほかにも6つもの病気を抱え、入退院を繰り返す生活を送っていたとされています。
特に深刻だったのが長年患っていた糖尿病で、2004年には合併症である壊疽(えそ)が悪化したことが原因で、左足を足首から切断するという大手術を受けています。
この手術以降は、義足と杖での生活を余儀なくされました。
【晩年の闘病生活】
糖尿病:長年患っており、合併症の壊疽により左足を切断。
心臓疾患:心筋梗塞の手術も経験。手術中に心臓が一時停止したこともあった。
その他複数の病気を抱え、満身創痍の状態だった。
力士という職業は、体重を増やすために食事量が多くなりがちで、引退後も食生活を変えるのが難しく、糖尿病を発症しやすいと言われています。
満身創痍の状態でありながらも、彼の相撲への情熱が尽きることはありませんでした。
退院後も松葉杖をついて稽古場に足を運び、土俵の弟子たちに厳しい檄を飛ばし続けていたのです。
弟子の大関昇進を見届けた最後の仕事
琴桜の生涯最後の仕事は、自らがスカウトし、我が子のように目をかけてきた愛弟子、琴光喜の大関昇進を見届けることでした。
2007年7月25日、琴光喜の大関昇進伝達式が執り行われた際、琴桜は車椅子でその場に駆けつけました。
闘病中とは思えないほど晴れやかで嬉しそうな表情で、昇進が決まった琴光喜の手を固く握って喜ぶその姿は、多くの報道陣のカメラに収められ、人々の感動を呼びました。
本人は「自分が大関になった時より嬉しい」と目を潤ませて語っており、この光景が公の場で見せた最後の元気な姿となりました。
そして、このわずか20日後に、彼はこの世を去ります。
まるで、愛弟子の晴れ姿を見届けるという最後の大役を果たし、安心して天国へ旅立ったかのようでした。
突然の訃報に悲しむ弟子や関係者
琴桜の突然の訃報は、佐渡ヶ嶽部屋の力士たちや相撲関係者に、計り知れないほどの衝撃と悲しみをもたらしました。
特に、大関に昇進したばかりだった琴光喜は、夏巡業で秋田から山形へ移動中に師匠の訃報に接し、「今はとてもコメントできるような状態じゃない」と話すのが精一杯だったといいます。
宿舎で一人、涙に暮れた琴光喜にとって、大関昇進を誰よりも喜んでくれた師匠の笑顔が、忘れられない光景として心に焼き付いたことでしょう。
当時、夏巡業の真っ只中だったため、琴欧洲や琴奨菊をはじめとする多くの現役力士たちは、師匠の葬儀に参列することができませんでした。
これは、「力士たるもの、本場所であれ巡業であれ、土俵上の務めを最後まで全うしなければならない」という生前の師匠の厳しい教えを、弟子たちが守ったためです。
彼らは巡業を終えて部屋に戻ってから、師匠の遺骨が納められた骨壷の前に、静かに手を合わせることとなりました。
師匠としての厳しさと、父親のような深い優しさを併せ持っていた琴桜が、いかに弟子たちから深く、そして強く慕われていたかが分かるエピソードです。
弟子に継がせたかった「琴桜」の四股名
琴桜には、生前、「いつか自分の弟子に”琴桜”の四股名を継がせたい」という大きな夢がありました。
残念ながら、彼が生きている間にその夢が叶うことはありませんでした。
しかし、その熱い思いは、時を超えて受け継がれることになります。
生前、娘婿である琴ノ若(現・佐渡ヶ嶽親方)に対し、「孫の将且(まさかつ)が大関に昇進することができたら、『琴櫻』の四股名を継がせてもよい」と伝えていたのです。
そして2024年、祖父の背中を追って角界入りした孫の琴ノ若(当時)が、見事に大関昇進を果たしました。
そして昇進後、翌5月場所より二代目「琴櫻」を襲名しました。
祖父の夢は、およそ17年の時を経て、最高の形で実現されたのです。天国の琴桜も、きっと目を細めて喜んでいることでしょう。
まとめ:琴桜(琴櫻)の死因→「敗血症による多臓器不全」

この記事のまとめになります。
・2007年8月14日に66歳で逝去
・晩年は糖尿病や心臓病など複数の病と闘う壮絶なものだった
・現役時代は「猛牛」の愛称でファンから親しまれた
元横綱・琴桜は、「猛牛」と称された強烈なぶちかましと一切引かない押し相撲を武器に、幕内優勝を5回記録しました。
32歳2ヶ月という当時最年長での横綱昇進は「遅咲きの桜」と呼ばれ、多くの人々に勇気と感動を与えました。
引退後は佐渡ヶ嶽親方として後進の指導に尽力し、大関・琴欧洲や琴光喜など数多くの名力士を育てた名伯楽として知られています。
晩年は合併症による左足切断という大手術を経験しながらも、最期まで相撲への情熱を燃やし続けました。
愛弟子・琴光喜の大関昇進伝達式への出席が最後の仕事となり、その直後にこの世を去りましたが、彼の「琴櫻」の名は孫へと受け継がれ、生前の夢は時を経て見事に実現されました。
厳しさと優しさで弟子たちから父親のように慕われた彼の突然の訃報は、相撲界に大きな衝撃と悲しみをもたらしました。
 
   
  