大瀧詠一の死因は「りんご」ではない。本当は「解離性動脈瘤」が原因だった!

大瀧詠一の死因は「りんご」ではない。本当は「解離性動脈瘤」が原因だった!

大瀧詠一の死因は「りんご」ではない。本当は「解離性動脈瘤」が原因だった!

伝説のミュージシャン、大瀧詠一さん。

その突然の訃報は多くのファンに衝撃を与えました。

「大瀧詠一の死因は本当にりんごだったのか?」と、発表から時間が経った今でも疑問に思っている方も多いのではないでしょうか。

 

この記事では、大瀧詠一の死因とりんごの間に報じられた関係性から、後に判明した本当の死因、そして彼の輝かしいプロフィールや色褪せない代表曲、独特な曲調・スタイル、さらには大瀧詠一から影響を受けている芸能人一覧まで、その偉大な足跡を深く、そして詳しく解説していきます。

 

【この記事の内容】

・大瀧詠一さんの本当の死因がわかる

・死因とりんごの関係性が理解できる

・解離性動脈瘤という病気の概要がわかる

・大瀧詠一さんの輝かしい功績を再確認できる

 

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大瀧詠一の死因とりんごの因果関係

大瀧詠一の死因とりんごの因果関係

突然の訃報と当初の報道について
大瀧詠一の死因は解離性動脈瘤
りんごが原因で発症したのか?

解離性動脈瘤とは?
解離性動脈瘤の予防法

突然の訃報と当初の報道内容

2013年12月30日の夕方、日本の音楽シーンを象徴する存在であったシンガーソングライターの大瀧詠一さんが65歳で急逝したというニュースが、年末の慌ただしい空気の中を駆け巡りました。

この一報は、音楽業界のみならず、日本中に大きな衝撃と悲しみをもたらしました。

報道では「りんごを喉の詰まらせて死亡」

報道によると、大瀧さんは同日午後5時半ごろ、東京都瑞穂町にある自宅で家族と過ごしている際に突然倒れたとのことです。

第一報では、「デザートのりんごを食べていて喉に詰まらせた」と家族が話していると伝えられました。

この非常に具体的で日常的な状況説明から、多くの人々は「りんごによる窒息死」という印象を強く受けたのです。

 

救急隊が駆けつけた際にはすでに心肺停止状態だったという深刻な状況も相まって、この速報は瞬く間に広がり、ファンや音楽関係者の間に深い悲しみが広がりました。

訃報がもたらした衝撃

長年にわたり音楽制作の第一線からは少し距離を置いていたとはいえ、その音楽的功績と存在感は絶大でした。

そのため、あまりにも突然で、そして「りんご」という日常的な言葉と結びついた訃報は、多くの人にとってにわかには信じがたい出来事として受け止められたのです。

大瀧詠一の死因は「解離性動脈瘤」

当初の報道から一夜明け、所属レコード会社であるソニー・ミュージックレコーズなどからの正式な発表により、大瀧詠一さんの本当の死因が「解離性動脈瘤(かいりせいどうみゃくりゅう)」であったことが公に明らかになりました。

 

これは、りんごを喉に詰まらせたことが直接的な原因ではなく、解離性動脈瘤という血管の病気が突発的に発症し、それが死に至る直接の原因となったことを意味します。

 

この事実は、翌日の報道で速やかに訂正され、ファンは改めて、彼が深刻な病によって命を落としたことを知りました。

結果として、「りんご」は直接の死因ではなかったものの、大瀧さんの最期の瞬間にまつわる象徴的なキーワードとして、人々の記憶に深く刻まれることとなりました。

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りんごが原因で発症した可能性

それでは、なぜ「りんご」が死因として最初に報じられたのでしょうか。

これは、大瀧さんが倒れた際の具体的な状況が大きく関係しています。

大瀧さんは、夕食を終え、デザートとしてりんごを口にしているまさにその最中に倒れました。

りんごが原因は「0(ゼロ)」ではない

しかし、食事、特に固形物を咀嚼する際の血圧の変動が、もともと体内にあったかもしれない解離性動脈瘤の発症の引き金になった可能性は、医学的な観点から否定できません。

一般的に、食事や排泄、入浴、あるいは急に重いものを持ち上げるなどの日常的な行動は、血圧を大きく変動させることがあります。

特に、硬いものを噛んだり、いきんだりすると血圧は瞬間的に上昇しやすいと言われています。

もしかしたら、その血圧の急上昇が、弱っていた大動脈の壁に亀裂を生じさせる最後の引き金になってしまったのかもしれませんね。

もちろん、これはあくまで状況からの推測であり、医学的な因果関係が証明されたわけではありません。

しかし、ご家族が目の前の状況として「りんごを食べていて」と説明したことと、本当の死因である解離性動脈瘤の発症タイミングが偶然重なったことで、当初の情報に繋がったと考えるのが自然でしょう。

解離性動脈瘤という病気について

大瀧詠一さんの命を奪った解離性動脈瘤とは、一体どのような病気なのでしょうか。

その恐ろしさを正しく理解することが重要です。

心臓から全身へ血液を送り出す人体で最も太い血管である「大動脈」の内側の壁(内膜)に亀裂が入り、その隙間に血液が勢いよく流れ込むことで、血管の壁が内外に裂けてしまう(解離する)病気。
血管が裂ける際に、「突然バットで殴られたような」「引き裂かれるような」と表現されるほどの激しい痛みが胸や背中、腹部に生じることが多く、極めて危険な状態に陥いる。(参照:国立循環器病研究センター 循環器病情報サービス

解離性動脈瘤の主な原因と危険な症状

この病気の最大の原因は「動脈硬化」であり、その背景には「高血圧」が存在することがほとんどです。

長年の高血圧によって血管がもろくなり、裂けやすい状態になってしまうのです。

他にも、喫煙、肥満、ストレス、睡眠時無呼吸症候群、遺伝的要因などもリスクを高めるとされています。

特に50歳以降の男性に多く、発症すると死亡率が非常に高い、恐ろしい病気の一つです。

突然発症して命を奪うことから「サイレントキラー(静かなる殺し屋)」と呼ばれることもあります。

注意すべき症状

・突然の激しい胸や背中の痛み

・失神、意識障害

・手足の麻痺やしびれ

・腹部の激痛

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解離性動脈瘤の予防法はある?

解離性動脈瘤を100%予防する直接的な方法を確立するのは難しいですが、その最大のリスク因子である高血圧や動脈硬化の進行を抑えることで、発症の可能性を減らすことは可能です。

最も重要なのは、日々の生活習慣を見直し、高血圧や動脈硬化の進行を防ぐことです。

具体的な予防策としては、以下のような継続的な取り組みが挙げられます。

これらの情報は、厚生労働省が推進する生活習慣病予防の考え方にも基づいています。(参照:厚生労働省 e-ヘルスネット

対策具体的な内容
血圧管理の徹底家庭で定期的に血圧を測定し、自分の血圧値を把握する。正常値を超えている場合は速やかに医師に相談し、必要に応じて治療を受ける。食事では減塩を強く意識する。
禁煙の実践喫煙は血管を直接傷つけ、動脈硬化を著しく進行させる最大の危険因子の一つです。禁煙することが強く推奨されます。
適度な運動の継続ウォーキングや軽いジョギングなどの有酸素運動は、血圧を長期的に安定させ、心肺機能を高める効果が期待できます。無理のない範囲で継続することが重要です。
バランスの取れた食生活野菜や魚を中心としたバランスの良い食事を基本とし、コレステロールや飽和脂肪酸の多い食品を避ける。肥満の予防・解消に努める。
定期的な健康診断

年に一度は健康診断や人間ドックを受け、血圧、コレステロール値、血糖値などをチェックし、ご自身の体の状態を正確に把握しておくことが重要です。

 

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大瀧詠一の死因とりんごと、音楽活動において実績

大瀧詠一の死因とりんごと、音楽活動において実績

大瀧詠一のプロフィール
代表曲「君は天然色」など
独特な音楽性の曲調・スタイル

伝説のバンド「はっぴいえんど」
大瀧詠一から影響を受けている芸能人一覧

大瀧詠一のプロフィール

ここで改めて、日本の音楽史に大きな足跡を残し、今なお尊敬を集める大瀧詠一さんのプロフィールを、その人物像がより深く伝わるようご紹介します。

本名大瀧 榮一(おおたき えいいち)
生年月日1948年7月28日
没年月日2013年12月30日(享年65)
出身地岩手県江刺郡梁川村(現:奥州市)
活動内容シンガーソングライター
作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
レコードレーベルオーナー
ラジオDJ
レコーディングエンジニアなど

ここに挙げただけでも、彼の活動がいかに多岐にわたっていたかが分かります。

メディアへの露出を極端に嫌い、東京都福生市にある自身のスタジオに籠って音楽制作に没頭する姿から、畏敬の念を込めて「福生の仙人」という異名でも知られていました。

少年時代からアメリカンポップスに深く傾倒し、その膨大な知識と愛情、そして独自の分析眼を自身の音楽制作に惜しみなく注ぎ込みました。

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代表曲「君は天然色」など

大瀧詠一さんの楽曲は、発表から数十年を経た今もなお、CMソングやテレビ番組のBGMとして頻繁に使用され、世代を超えて多くの人々に愛されています。

特に彼の名を不動のものにしたのが、1981年に発表された不朽の名盤A LONG VACATIONです。

このアルバムは商業的な大成功を収め、その年の日本レコード大賞でベストアルバム賞を受賞しました。

主な代表曲(ソロ・楽曲提供)

カテゴリ曲名アーティスト発表年
ソロ楽曲君は天然色大瀧詠一1981年
恋するカレン大瀧詠一1981年
幸せな結末大瀧詠一1997年
夢で逢えたら大瀧詠一(セルフカバー)2014年(没後発表)
主な楽曲提供風立ちぬ松田聖子1981年
冬のリヴィIERA森進一1982年
熱き心に小林旭1985年
快盗ルビイ小泉今日子1988年

これらの楽曲の多くは、作詞家の松本隆さんとの黄金コンビによって生み出されました。

松本さんが描く情景豊かな歌詞の世界と、大瀧さんの洋楽的で洗練されたメロディが完璧に融合し、日本のポップス史における金字塔として永遠に輝き続けています。

「ナイアガラ・サウンド」の誕生

大瀧詠一さんの音楽を語る上で欠かせないのが、彼が敬愛したアメリカのプロデューサー、フィル・スペクターに影響を受けたウォール・オブ・サウンド(音の壁)というレコーディング手法です。

これは、幾重にも楽器の音を重ねてダビングし、厚みと奥行きのあるリッチなサウンドを作り上げる手法で、大瀧さんはこれを独自に昇華させました。

このサウンドは、彼が主宰したレーベル名にちなんで「ナイアガラ・サウンド」とも呼ばれました。

当時の最新サウンドを積極的に取り入れる

カラッと乾いたアメリカ西海岸のポップスを彷彿とさせる爽やかなメロディと、緻密に計算され尽くした華麗なアレンジが融合し、唯一無二の音楽世界を構築したのです。

その一方で、「ナイアガラ音頭」や、ザ・ビートルズの楽曲を音頭にアレンジした金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」のプロデュースなど、遊び心と実験精神にあふれる「ノベルティ・ソング」も数多く手掛けており、その音楽性の底知れぬ幅広さも大きな魅力の一つです。

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伝説のバンド「はっぴいえんど」

大瀧詠一さんの輝かしいキャリアの原点であり、日本のロック史を語る上で絶対に欠かせないのが、伝説のロックバンドはっぴいえんどの存在です。

1970年、細野晴臣さん(ベース)、松本隆さん(ドラムス)、鈴木茂さん(ギター)という、後に日本の音楽界を牽引する才能たちと共にデビューしました。

あえて日本語の歌詞で勝負する

当時の日本のロックシーンでは、英語で歌うのが主流であり、日本語はロックのリズムに乗らないとされていました。

しかし彼らは、叙情的で美しい日本語の響きを、洗練されたロックサウンドに乗せるという画期的な試みを行い、大成功を収めます。

風街ろまん」などのアルバムは歴史的名盤として高く評価され、「日本語ロックの礎を築いた」と称されています。

活動期間は実質的にわずか3年ほどでしたが、その後の日本の音楽シーンに与えた影響は計り知れません。

メンバーそれぞれが、ソロアーティストやプロデューサーとして、日本の音楽界を形作る偉大な存在となっていきました。

大瀧詠一から影響を受けている芸能人一覧

大瀧詠一さんの音楽と、商業的な成功に迎合しない孤高の制作姿勢は、世代やジャンルを超えて、数多くのアーティストや芸能人に計り知れない影響を与えました。

山下達郎さん

佐野元春さん

伊藤銀次さん

この有名なミュージシャンたちは、ナイアガラ・レーベルで共に活動し、その音楽性を直接吸収していきます。

彼らは大瀧さんの音楽的遺伝子を受け継ぎながら、それぞれが独自のスタイルを確立し、日本の音楽シーンを豊かにしました。

 

他にも、RATS & STARの鈴木雅之さんはアマチュア時代から大瀧さんの自宅に出入りするなど親交が深く、大瀧さんが作曲した「夢で逢えたら」をカバーし大ヒットさせています。

また、サンボマスターのボーカル山口隆さんも、最も尊敬するアーティストとして大瀧さんの名を挙げており、対談も実現させています。

音楽界以外への影響

影響は音楽界にとどまりません。

漫画家のさくらももこさんも大のファンとして知られ、アニメ『ちびまる子ちゃん』の主題歌制作を大瀧さんに依頼し、「うれしい予感」(歌:渡辺満里奈)が生まれました。

彼女の作品の持つどこか懐かしく温かい世界観は、大瀧さんの音楽と通じるものがあります。

このように、ジャンルを超えて多くのクリエイターたちが、大瀧詠一の作り出す音楽世界に魅了され、インスピレーションを受け続けているのです。

 

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まとめ:大瀧詠一の死因はりんごではなかった

 

この記事のまとめになります。

・大瀧詠一は2013年12月30日に65歳で急逝

・当初の報道ではりんごを喉に詰まらせたことによる窒息死と伝えられた

・自宅でりんごを食べている最中に突然倒れたという状況が最初の報道に繋がった

・後に所属レコード会社から本当の死因は解離性動脈瘤であったことが発表された

・食事中の血圧の急上昇が、病気の発症の引き金になった可能性が指摘されている

大瀧詠一さんの音楽キャリアの原点は、細野晴臣、松本隆、鈴木茂と共に結成した伝説のバンド「はっぴいえんど」にあります。

このバンドは日本語の美しい響きをロックに乗せ、日本語ロックの礎を築いたと高く評価されています。

 

ソロ活動では1981年のアルバム「A LONG VACATION」が歴史的な大ヒットを記録し、「君は天然色」や「恋するカレン」、「幸せな結末」など、今も愛される代表曲を生み出しました。

また、松田聖子の「風立ちぬ」をはじめ、他のアーティストへの楽曲提供でも数々のヒットを記録。

 

緻密で厚みのある「ナイアガラ・サウンド」と呼ばれる独自の音楽スタイルを確立し、山下達郎や佐野元春、漫画家のさくらももこさんなど、ジャンルを超えたクリエイターに多大な影響を与えました。

その楽曲は発表から数十年を経ても色褪せることなく、世代を超えて多くの人々に愛され続けています。

 

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