山中伸弥は落ちこぼれ?挫折からの成功哲学

ノーベル生理学・医学賞受賞者である山中伸弥が、かつて「落ちこぼれ」と呼ばれていたという話を聞いたことはあるでしょうか。

iPS細胞の開発という、医学の歴史を塗り替えるほどの偉業を成し遂げた輝かしい経歴の裏には、我々が想像する以上に多くの苦悩と深い挫折の物語が隠されています。

この記事では、山中伸弥の生い立ちに始まり、研修医時代に刻まれた不名誉なあだ名、そして数々の失敗体験を詳しく掘り下げていきます。

また、彼の生まれ持った性格がキャリアにどう影響を与えたのかを分析し、臨床医から研究者への道を歩むきっかけとなった感動的なエピソードや、逆境の中で生まれた心に響く失敗に関する名言もご紹介します。

 

【この記事の内容】

・山中伸弥が「落ちこぼれ」と呼ばれた具体的な理由

・臨床医としての挫折から研究者へ転身した経緯

・失敗を成功に変えた彼の哲学や考え方

・私たち自身のキャリアに活かせる教訓

 

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山中伸弥が落ちこぼれと呼ばれた理由

山中伸弥が落ちこぼれと呼ばれた理由

医師を目指した山中伸弥の生い立ち

山中伸弥は1962年、日本のものづくりを支える町、大阪府東大阪市で生を受けました。

父親はミシンの部品などを製造する町工場を経営しており、山中伸弥は幼い頃から職人である父の背中を見て育ちました。

父親は手先が器用な優れた技術者でしたが、息子の伸弥氏に対しては早い段階で「お前は経営には向いていない」と冷静に伝えていたそうです。

学生時代の数々の怪我から医師を目指す

彼が医師という具体的な道を志すようになったきっかけは、自身の経験に深く根差しています。

学生時代には柔道、そして大学ではラグビーと、激しいスポーツに情熱を注ぎました。

その結果、選手生命を脅かすような大怪我を繰り返し、骨折の回数は実に10回以上に及んだと言います。

そのたびに整形外科医の世話になり、治療を受ける中で、人体の構造や医療そのものへの関心を自然と深めていきました。

決定的な転機となったのは、徳田虎雄氏の著書『生命だけは平等だ』との出会いです。

離島や僻地での医療に身を投じる徳田氏の情熱的な生き様に強く心を揺さぶられ、医師という職業が持つ崇高な使命感を意識するようになります。こ

れらの背景から、彼は神戸大学医学部へ進学。誰もが羨むエリートとしての道を順調に歩み始めたかに見えました。

研修医時代の屈辱的だったあだ名

神戸大学医学部を優秀な成績で卒業し、希望に満ちて国立大阪病院の整形外科で臨床研修医としてのキャリアをスタートさせた山中伸弥。

しかし、彼を待ち受けていたのは、理想とはかけ離れた厳しい現実でした。

配属された整形外科は、体育会系の気質が色濃く残る厳しい世界であり、指導医たちは「鬼のように怖かった」と本人が述懐するほどでした。

 

その中で、彼は他の同期の医師たちと比較して、臨床医としての実践的な技術、とりわけ手術の腕前が著しく劣っているという現実に直面します。

どれだけ予習を重ねても、いざメスを握ると手際が悪く、周囲のスピードについていけません。

指導医からは連日のように厳しい叱責が飛び、次第に「仕事ができない厄介者」というレッテルを貼られてしまいます。

「ジャマナカ」と呼ばれていた

そして、いつしか彼が呼ばれるようになったあだ名が「ジャマナカ」でした。

これは「邪魔な山中」を短く縮めた、あまりにも辛辣なあだ名です。

彼の存在そのものが、チーム全体の業務の妨げになっているという、非常に屈辱的な意味合いが込められていました。

この不名誉な愛称は、当時の彼の苦しい立場と深い孤独を象徴する言葉として、ノーベル賞受賞後の今もなお、多くのメディアで語り継がれています。

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手術が下手すぎた医師としての失敗

「ジャマナカ」というあだ名が定着してしまった背景には、彼の臨床医としての看過できないレベルの具体的な失敗の数々が存在します。

その中でも特に象徴的なのが、手術に要する時間の異常な長さです。

本人も講演会などで語っていますが、熟練した指導医であれば通常20分程度で終えるような比較的簡単な手術でさえ、山中伸弥が執刀すると2時間もの時間を費やしてしまうことが頻繁にあったと言われています。

この極端な手際の悪さは、手術を受ける患者の身体的負担を増大させるだけでなく、分刻みで動く病院全体のスケジュールにも深刻な影響を及ぼしかねない、重大な問題でした。

 

手術の腕前は、医学的な知識だけでなく、経験によって培われる判断力と、生まれ持った手先の器用さが複雑に絡み合って形成されるものです。

彼は、重症の関節リウマチを患う女性患者を目の当たりにし、どんな天才的な名医の手術をもってしても根治させることができない病気が世の中には数多く存在する、という厳しい現実に直面します。

「手術が下手な自分に、一体何ができるのか」。目の前の患者一人すら満足に救えない無力感と、医学そのものが持つ限界という二重の壁が、彼の心を深く蝕んでいきました。

臨床医に向かなかった・・・

山中伸弥が臨床医として大成しなかった理由は、単に手先が不器用だったという技術的な問題だけではありませんでした。

彼自身の内面、つまり持って生まれた性格も、そのキャリアの方向性に大きく影響していたと考えられます。

山中伸弥自らの性格を振り返り、「すぐに新しいことをやりたくなる飽きやすい性格」と客観的に分析しています。

臨床医、とりわけ外科医の世界では、確立された術式や治療法を、いかにミスなく正確に、そして迅速に繰り返せるかという能力が極めて高く評価されます。

一方で、山中伸弥の知的好奇心は、常に未知の現象を解明したり、まだ誰も試したことのない新しい方法を考案したりすることに強く向いていました。

この根本的な志向性の違いが、臨床現場での不適合を生んだ一因と言えるでしょう。

特性臨床医に求められる資質研究者に求められる資質
主な活動定型的な手技の反復と応用未知への探求、試行錯誤
思考様式確立された手法の遵守と正確性常識を疑う探究心と独創性
成功指標ミスのない確実な治療結果新しい発見、パラダイムシフト
環境規律、チームワーク、即時判断自由な発想、個人の裁量、長期的視点

このように両者を比較すると、彼の性格が規律と反復を重んじる臨床現場よりも、自由な発想が求められる研究室でこそ最大限に活かされるものであったことが明確に分かります。

決まった仕事を単調だと感じてしまう彼の特性は、臨床医としては致命的な弱みとなりましたが、後に世界を驚かせる研究者としては、必要不可欠な強みへと劇的に変わっていったのです。

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研究者の道へ進むきっかけのエピソード

臨床医としての道に完全に自信を失い、絶望の淵に立たされていた山中伸弥ですが、彼の運命を180度変える劇的な転機が訪れます。

それは、逃げるようにして籍を置いた大阪市立大学大学院での出来事でした。

大学院で研究に没頭する

指導教官であった三浦克之講師の下で、彼は人生で初めて本格的な研究実験に没頭します。

与えられたテーマは、PAF(血小板活性化因子)という物質が、なぜ犬の血圧を下げるのか、そのメカニズムを解明するというものでした。

三浦講師は「PAFがソロンボキサンA₂という別の物質を体内で作らせ、その物質が血圧を下げている」という仮説を立てており、山中伸弥の実験は、それを証明するためのものでした。

 

しかし、実際に得られた実験結果は、仮説とは全く異なる衝撃的なものでした。

仮説を裏付けるどころか、投与した薬の影響で、一度は回復しかけた犬の血圧が、その後危険なレベルまで下がり続けてしまったのです。

通常であれば「実験は失敗」と結論づけられるこの予期せぬ結果に、山中伸弥は言いようのない興奮を覚えたと語っています。

「えぇー!!なんでこんな、かえって…」。

予想外の現象を目の当たりにした瞬間、彼は恐怖や落胆よりも先に、純粋な知的好奇心が全身を駆け巡るのを感じました。

この経験こそが、「自分は医者ではなく、研究者に向いているのかもしれない」と、彼のアイデンティティを再構築する決定的なエピソードとなったのです。

 

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落ちこぼれからノーベル賞へ山中伸弥の哲学

落ちこぼれからノーベル賞へ山中伸弥の哲学

恩師との出会いと研究の面白さ

前述の通り、山中伸弥が研究の道へ大きく舵を切るきっかけは、偶然から生まれた予想外の実験結果でした。

しかし、その才能の芽を育て、開花させる上で、素晴らしい指導者との出会いが不可欠だったことも間違いありません。

 

大阪市立大学大学院時代の指導教官であった三浦克之講師は、自らが立てた仮説が目の前で否定されたにもかかわらず、その予想外の結果に興奮する若き日の山中伸弥と共に、「これはスゴイな!驚いたな!」と心から喜んでくれたそうです。

自らの間違いを潔く認め、それ以上に未知の現象そのものを面白がるというその姿勢は、まさに研究者としての理想像でした。

権威や既存の説よりも、目の前で起きている真実を重んじる科学の精神を、三浦講師は身をもって示してくれたのです。

 

この感動的な経験を通じて、山中伸弥は「先生の言うことを鵜呑みにしてはいけない」「教科書に書いてあることが必ずしも正しいわけではない」という、科学の根幹に関わる極めて重要な教訓を学びます。

先入観を持たずに目の前の現象をありのままに捉え、常識を疑ってかかるというこの姿勢が、後のiPS細胞発見という、医学史の教科書を書き換える世紀の偉業に繋がっていくのです。

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米国留学後のうつ状態という挫折

研究者としての天職を見出し、希望を胸に渡米した山中伸弥ですが、その後のキャリアも決して順風満帆ではありませんでした。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校のグラッドストーン研究所での博士研究員時代には、世界トップレベルの研究者たちと議論を交わし、潤沢な研究費と整った環境の中で大きな刺激を受けました。

しかし、日本に帰国後、彼は再び大きな壁にぶつかることになります。

 

帰国後に助手の職を得た日本の大学の研究室は、米国とはあまりにも環境が異なっていました。

米国では専門の技術者が担当していたネズミの世話といった、研究以外の雑務に多くの時間を奪われ、肝心の実験に集中できない日々が続きました。

さらに、当時まだその重要性がほとんど理解されていなかった彼のiPS細胞に関する研究テーマは、周囲の教授たちから「一体何がしたいのか分からない」と批判され、孤立を深めていきました。

 

最先端の世界から戻ってきたにもかかわらず、誰にも評価されず、研究者としての価値を認められない孤独な状況に、彼は精神的に深く追い詰められていきます。

本人が後に「PAD(Post America Depression=米国後うつ状態)」と名付けるほどの深刻なうつ状態に陥り、研究者をきっぱりと辞めて、より給料の良い臨床医に戻ろうと本気で考えた時期もあったのです。

この経験は、彼のキャリアにおける二度目の、そして最大の挫折でした。

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心に響く失敗に関する名言の紹介

数々の成功とそれ以上の挫折を乗り越えてきた山中伸弥の言葉には、体験に裏打ちされた深い説得力と重みがあります。

<人生哲学を最も象徴ことわざ> → 「人間万事塞翁が馬」

良いことが悪いことの始まりであったり、その逆もまた然りであったりする、人生の予測不能性と奥深さを表す言葉です。

整形外科医としてのキャリアの失敗がなければ、研究者としての成功もなかったという、まさに彼自身の経験そのものを言い表していると言えます。

 

また、彼はこれから未来を担う若い世代に向けて、挑戦と失敗の重要性について繰り返し語っています。

「10回挑戦して、9回失敗をして、1回やっと成功するくらいの感じで、これから色んなことが起こると思うから、9回失敗しないと1回の成功は手に入らない」

これは、失敗が単なる無駄や終わりではなく、輝かしい成功に至るために避けては通れない、不可欠な学習プロセスであるという彼の信念を示しています。

「高く飛ぶためには低くかがむことが必要だ」

この言葉は、キャリアにおける苦しい時期や挫折の経験が、後の大きな飛躍のためのエネルギーを蓄える重要な準備期間になるという、非常に前向きな視点を提供してくれています。

他の偉人にも共通する落ちこぼれ体験

かえる

山中伸弥のような、ある分野では「落ちこぼれ」とされながらも、別の分野で歴史的な成功を収めた例は、決して珍しいことではありません。

むしろ、時代を切り開いてきた多くの偉人たちが、同様の経験をしています。

アインシュタイン・エジソン

例えば、20世紀最高の物理学者と称されるアルベルト・アインシュタインや、発明王として知られるトーマス・エジソンは、共に学生時代の成績が振るわず、当時の画一的な学校教育の枠には到底収まりきらない子供でした。

彼らの独創的すぎる思考は、時に教師たちを困惑させたと伝えられています。

ジョン・ガードン

さらに驚くべきは、山中伸弥と共に2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞した英国のジョン・ガードン博士の逸話です。

彼は、名門イートン校在学中の16歳の時、生物の成績がクラス250人中250位、つまり最下位でした。

当時の生物の教師は彼の成績表に「ガードンが科学者になりたいなどというのは、全くもって馬鹿げた考えだ」とまで書き記したのです。

彼はその成績表を、戒めとして今でも自身の机に飾っていると言われています。

 

これらの事例は、社会が用意した一つの価値観や物差しでは到底測ることのできない、多様な才能の存在を力強く示唆しています。

学校や特定の組織での評価が低いからといって、その人の持つ無限の可能性が閉ざされるわけでは決してないのです。

 

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まとめ:山中伸弥は「落ちこぼれ」だから成功した

まとめ:山中伸弥は「落ちこぼれ」だから成功した

研修医時代、手術が極端に苦手で「ジャマナカ」とまで呼ばれた山中伸弥は、臨床医としては紛れもない「落ちこぼれ」でした。

 

しかし、その深い挫折こそが、彼の運命を研究者の道へと導きます。

探究心旺盛な性格は臨床現場では裏目に出ましたが、予想外の実験結果に心から興奮する自分を発見し、天職を見出しました。

 

数々の失敗やうつ状態さえも「人間万事塞翁が馬」と捉え、成功への糧とする彼の生き方は、アインシュタインやエジソンのように、一つの場所で評価されなくても自分に合った道を見つけることで誰もが輝ける可能性を示しています。

 

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