「江川卓を最近見ないな」と感じる方も多いのではないでしょうか。
かつて怪物と呼ばれた江川卓の何がすごいの?という伝説的な功績や、衝撃的だった江川卓が野球を引退理由は?といった疑問、そして現役時代の江川のライバルは誰だったのかという関心を持つファンも少なくないはずです。
テレビで見る機会が減ったと感じるかもしれませんが、実は多方面で活躍を続けています。
この記事では、江川卓の輝かしい経歴を振り返りつつ、野球解説者やYouTuberとしての現在の活躍状況までを詳しく解説します。
【この記事の内容】
・「空白の一日」事件や引退理由の真相
・野球解説者やYouTuberとしての現在の活動
・野球殿堂入りや監督就任の可能性について
江川卓を最近見ないがその経歴と功績は?

世間を騒がせた「空白の一日」事件とは
巨人軍エースとしての圧倒的な成績
現役時代の江川のライバルは誰だったか
江川卓が野球を引退理由は肩の故障
怪物と呼ばれた江川卓の何がすごいの?

江川卓氏がなぜ「怪物」とまで呼ばれるのか、その理由はアマチュア時代からプロに至るまでの、まさに規格外としか言いようのない圧倒的な実績にあります。
江川卓氏の伝説は作新学院高校時代に幕を開け、その投球は社会現象を巻き起こしました。
高校野球の常識を覆した記録の数々
高校時代の江川氏は、対戦相手を絶望させるほどの支配的なピッチングを見せました。
公式戦で達成したノーヒットノーラン9回、そのうち完全試合が2回という記録は、今でも高校野球史に燦然と輝いています。
特に語り草となっているのが1973年の春の選抜大会です。
この大会で4試合に登板し、奪った三振は実に60個。この1大会最多奪三振記録は、半世紀近く経った今なお誰にも破られていません。
甲子園に彼が登場する日は、球場が満員になるだけでなく、テレビの視聴率も跳ね上がり、多くのファンがその一挙手一投足に注目しました。
東京六大学野球での新たな伝説
高校卒業後、法政大学に進学した江川氏は、東京六大学野球リーグという新たな舞台で伝説を築き続けます。
エースとしてチームを5度のリーグ優勝に導き、個人としても数々の大記録を樹立しました。
通算47勝は、山中正竹氏の48勝に次ぐリーグ歴代2位の記録です。
さらに、通算17完封はリーグ史上最多記録であり、彼の安定感とスタミナがいかに傑出していたかを物語っています。
大学野球という高いレベルにおいても、彼の「怪物」ぶりは健在でした。
プロの世界で証明した本物の実力
アマチュア時代の実績があまりにも偉大だったため、プロでの活躍を疑問視する声もありましたが、江川氏はその実力が本物であることを証明します。
読売ジャイアンツのエースとして、1981年には最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手タイトルを総なめにする「投手五冠」を達成。これは2リーグ制以降では史上3人目となる快挙であり、昭和最後の達成者でもあります。
ホップするような軌道を描くと評された唯一無二のストレートと、鋭く落ちるカーブのコンビネーションは、プロの強打者たちをも手玉に取りました。
アマチュアからプロまで、すべてのステージで頂点を極めたことこそ、彼が「怪物」と呼ばれる最大の所以です。
世間を騒がせた「空白の一日」事件とは

江川氏の華々しいキャリアにおいて、常に影を落としてきたのが、プロ野球界のルールそのものを揺るがした「空白の一日」事件です。
この出来事は、彼の巨人軍入団を巡る一連の騒動であり、野球ファンのみならず一般社会からも大きな注目を集めました。
事件が起きたのは1978年11月21日。ドラフト会議の前日でした。
当時の野球協約では、ドラフト会議によって球団が選手との交渉権を得る仕組みになっていました。
しかし、ドラフト会議の前日は、どの球団も選手との交渉権を持たない、いわばルールの「空白地帯」でした。読売ジャイアンツと江川氏側は、この協約の隙間を突いて電撃的に入団契約を締結したのです。
この行動は「ドラフト制度の根幹を揺るがす暴挙」として、他球団から凄まじい反発を招きました。
セントラル・リーグはこの契約を無効と判断しましたが、巨人はこれを不服として翌日のドラフト会議をボイコット。
巨人が欠席したドラフト会議では、阪神タイガースが1位で江川氏を指名し、交渉権を獲得しました。
事態は泥沼化しましたが、最終的には当時の金子鋭コミッショナーによる「強い要望」という名の裁定が下されます。
その内容は、「江川は一度、交渉権を持つ阪神と入団契約を結び、その後ただちに、小林繁投手を交換相手として巨人へトレードする」という前代未聞のものでした。
この一連の経緯により、江川氏は巨人入りの夢を叶えた一方で、「球界のルールを無視した」という強い批判を浴び、世間からはヒール(悪役)と見なされることになってしまったのです。
この事件は、彼のその後の野球人生に複雑な影響を与え続けることになりました。
巨人軍エースとしての圧倒的な成績

数々の論争と騒動の末に巨人軍のユニフォームに袖を通した江川氏は、その逆風を力に変えるかのように、マウンド上で圧倒的なパフォーマンスを見せつけました。
江川卓がエースとして君臨した時代は、巨人軍の黄金期の一つとして記憶されています。
入団初年度こそ9勝10敗と負け越したものの、2年目の1980年には早くも本領を発揮。
16勝を挙げて最多勝利と最多奪三-振の二冠に輝き、リーグを代表する投手へと成長します。
そして、江川卓のキャリアの頂点となったのが、前述の通り1981年シーズンです。
投手五冠を達成し、チームを8年ぶりのリーグ優勝と日本一に導きました。この年の活躍はまさに圧巻で、セ・リーグの最優秀選手(MVP)にも満場一致で選出されています。
プロでの実働年数は9年と、他のレジェンド投手と比較して短いものの、その期間に残したインパクトは計り知れません。
江川卓の詳細なタイトルと通算成績は以下の通りです。
| 受賞・記録 | 内容・回数 | 
| 通算成績 | 266試合 135勝72敗3セーブ 防御率3.02 | 
| 最多勝利 | 2回 (1980年, 1981年) | 
| 最優秀防御率 | 1回 (1981年) | 
| 最多奪三振 | 3回 (1980年, 1981年, 1982年) | 
| 最高勝率 | 2回 (1981年, 1984年) | 
| 最優秀選手 (MVP) | 1回 (1981年) | 
| ベストナイン | 2回 (1980年, 1981年) | 
| オールスターゲーム出場 | 8回 | 
特筆すべきは、1984年のオールスターゲームで見せた8者連続奪三振です。
これは江夏豊氏の持つ9者連続記録にあと一歩と迫る快挙であり、彼が特別な舞台でこそ輝くスターであったことを示しています。
9年という短い期間にこれだけのタイトルを獲得し、常にファンの注目を集め続けた事実は、江川卓が単なる優れた投手ではなく、球史に名を刻む真のエースであったことを雄弁に物語っています。
現役時代の江川卓の”ライバル”は誰だったか

江川氏の現役時代は、数多くのライバルとの熱い戦いによって彩られていました。
セ・リーグの並み居る強打者たちを相手に名勝負を繰り広げましたが、その中でも特に「ライバル」として語られるべき存在が二人います。
一人はチーム内の競争相手、もう一人はリーグを代表する好打者でした。
チーム内の熾烈なエース争い:西本聖
江川氏が最も強く意識したライバルは、同じ巨人軍に在籍した西本聖投手です。
ドラフト外から血のにじむような努力で這い上がってきた雑草魂の西本氏と、アマチュア時代からエリート街道を歩んできた江川氏。
その対照的なバックグラウンドを持つ二人は、常に巨人軍のエースの座を巡って火花を散らしました。
二人のライバル関係は、単なる競争相手という言葉では片づけられません。
報道によれば、お互いが先発する試合では「打たれろ」と願うほど、その対抗心は熾烈だったと言われています。
しかし、この激しい競争があったからこそ、互いの能力が最大限に引き出され、1980年代の巨人投手王国を築き上げる原動力となりました。
1981年に江川氏が投手最高の栄誉である沢村賞を逃し、西本氏が受賞した出来事は、二人の関係性を象徴するエピソードとして有名です。
伝統の一戦を彩った名勝負:掛布雅之
チームの外に目を向ければ、阪神タイガースの「ミスター・タイガース」こと掛布雅之氏が最大のライバルとして立ちはだかりました。
伝統の巨人・阪神戦において、マウンド上の江川氏とバッターボックスの掛布氏が対峙する場面は、当時のプロ野球で最もファンが熱狂する瞬間でした。
江川氏の浮き上がるストレートを、掛布氏がどう打ち返すか。二人の読みとプライドが交錯する対決は、常に球場のボルテージを最高潮に高めました。
この二人の名勝負は、単なる一球団同士の戦いを超え、昭和のプロ野球史を語る上で欠かすことのできない伝説として、今もなお多くのオールドファンの心に深く刻み込まれています。
野球を引退理由は「肩の故障」

江川氏が1987年、多くのファンに惜しまれながらも32歳という若さで現役引退を決意した最大の理由は、長年にわたって彼を苦しめ続けた右肩の故障でした。
江川卓のピッチングの生命線であった豪速球は、同時に彼の投手生命を削る諸刃の剣でもあったのです。
限界を悟った運命の一球
引退の直接的な引き金となったのは、同年9月20日に行われた広島東洋カープ戦での出来事でした。
この日、江川氏は近年最高の出来と自負するほどのコンディションでマウンドに上がっていました。
しかし9回裏、2対1とリードした場面で、法政大学の後輩でもある小早川毅彦選手に、起死回生の逆転サヨナラ2ランホームランを浴びてしまいます。
キャッチャーのサインに首を振り、自らが完璧と信じて投じた渾身のストレートをライトスタンドまで運ばれた瞬間、江川氏はマウンド上で膝から崩れ落ちました。
この一球によって、自身の肩がもはや限界であり、これ以上エースとしてチームを背負うことはできないと悟ったと言われています。
このあまりにも劇的な幕切れは、彼の引退を象徴するシーンとして語り継がれています。
引退記者会見では、肩の痛みに耐えるため、投手生命を縮める覚悟で特別な鍼治療を受けていたという衝撃の事実を涙ながらに告白しました(この話は後に会見の熱気から出た創作であったと本人が認めています)。
9年間というあまりにも短いプロ野球人生でしたが、その投球は閃光のようにファンの脳裏に焼き付き、鮮烈なインパクトを残して「怪物」は静かにマウンドを降りました。
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江川卓を最近見ないが現在の活動内容は?

現在の活躍状況②:YouTuber
現在の活躍状況③:新聞での寄稿
指導者(監督・コーチ)にならない理由
野球殿堂入りはしているのか?
現在の活躍状況①:野球解説者
現役引退後、江川氏はすぐに野球解説者へと転身し、現在に至るまでそのキャリアを継続しています。
江川卓の活動の中心であり、野球ファンが最も彼の姿を目にする機会が多いのが、この解説者の仕事です。
日本テレビ専属解説者としての信頼
江川氏は長年にわたり、日本テレビの専属野球解説者を務めています。
主に巨人戦の野球中継に登場し、冷静沈着かつ論理的な語り口で試合の展開を分析します。
自身の豊富な投手経験を基にした解説は非常に深く、特に投手の心理状態や配球の意図、打者との駆け引きに関する分析には定評があります。
なぜその一球を選択したのか、次に何を狙うべきかといった彼の解説は、試合観戦をより一層奥深いものにしてくれます。
スポーツキャスターとしての実績
また、単なる中継の解説者に留まらず、人気スポーツニュース番組でキャスターを務めた経験も豊富です。
1994年から長きにわたって放送された「スポーツうるぐす」や、その後継番組である「Going! Sports & News」では、メインキャスターやコメンテーターとしてお茶の間に親しまれました。
これらの番組を通じて、野球だけでなく様々なスポーツに対する幅広い知見を披露し、野球ファン以外の層にもその名を知られる存在となりました。
このキャスター経験が、彼の解説に分かりやすさと親しみやすさをもたらしている要因の一つとも言えます。
現在の活躍状況②:YouTuber

時代の変化に対応し、江川氏は近年、YouTuberという新たな分野での活動も精力的に行っています。
2022年1月に自身の公式YouTubeチャンネル「江川卓のたかされ」を開設し、野球ファンを中心に大きな反響を呼んでいます。
このチャンネルの最大の魅力は、テレビでは決して見ることのできない、リラックスした雰囲気の中での「本音トーク」です。
現役時代のライバルであった掛布雅之氏や達川光男氏といったレジェンドたちをゲストに招き、当時の裏話や今だから話せる秘話を交わす対談企画は、特に人気を博しています。
また、自身のピッチング理論や、現代野球のトレンドに対する独自の分析など、より専門的でマニアックなテーマにも踏み込んでいます。
テレビ番組の限られた時間では伝えきれない深い野球談議を、思う存分展開できるのがYouTubeの強みです。
現役時代を知らない若いファンも、このチャンネルを通じて「怪物・江川卓」のすごさや、彼のユニークな人柄に触れることができ、世代を超えたファンとの新たな接点となっています。
現在の活躍状況③:新聞での寄稿

江川氏は、映像メディアでの解説だけでなく、野球評論家として新聞や雑誌などの活字メディアにおいてもその才能を発揮しています。
江川卓の健筆は、試合の勝敗だけでなく、その裏側にある人間ドラマや戦略の妙を浮き彫りにします。
江川卓の評論は、単なる試合のレポートに終わりません。
なぜこのチームが勝ったのか、この選手が活躍できたのか、その要因をデータと自身の経験則から深く分析し、読者に新たな視点を提供します。
選手の技術的な特徴や、監督の采配の意図などを分かりやすく言語化する能力に長けており、彼のコラムを読むことで、プロ野球というスポーツの知的で奥深い側面を発見することができます。
さらに、これまでに複数の書籍を執筆・監修しています。
特に、長年のライバルであった掛布雅之氏と共著という形で出版された『巨人-阪神論』は、それぞれの立場から見た伝統の一戦の歴史や哲学が語られており、多くの野球ファンに読まれました。
このように、江川氏は話し手としてだけでなく、書き手としても野球の魅力を伝え続ける、稀有な存在なのです。
指導者(監督・コーチ)にならない理由

これほどの実績と卓越した野球理論を持つ江川氏が、なぜ一度も監督やコーチとして現場に復帰していないのか。
これは、長年にわたって多くの野球ファンが抱き続けてきた大きな疑問です。
過去には、読売ジャイアンツの監督候補として幾度となく彼の名前がメディアを賑わせてきましたが、実現には至っていません。
その最も大きな理由として挙げられるのが、江川卓自身の確立された野球哲学と、それを曲げない強い意志です。
江川氏は公の場で、このような発言をしています。
江川卓にとって、指導者になるとは自らの野球観をチームに浸透させることであり、それは全権を持つ監督という立場でなければ不可能だと考えているようです。
2011年には、巨人のヘッドコーチ就任が水面下で進められていたことが明らかになりましたが、球団内の混乱(いわゆる「清武の乱」)もあり、実現しませんでした。
一方で、監督就任の可能性を完全に否定しているわけでもなく、「年齢的に最後かなと思った時には、巨人以外のユニフォームを着ることもあるかもしれない」と語ったこともあります。
江川卓の揺るぎない信念と、指導者という立場に対する真摯な考え方が、安易に現場復帰を選ばない理由と言えるでしょう。
野球殿堂入りはしているのか?

結論から述べると、数々の伝説を打ち立てた江川卓氏ですが、2025年9月現在、野球殿堂入りは果たしていません。
野球殿堂には、現役時代の活躍を主に評価する「プレーヤー表彰」と、アマチュア時代の実績や指導者、審判員としての功績なども幅広く評価対象となる「エキスパート表彰」の二つの部門があります。
江川氏がこの栄誉を手にできていない背景には、いくつかの複合的な要因が考えられます。
殿堂入りの障壁となっている要因
要因1:プロ野球選手としての通算成績がそこまで大きくはない
実働9年で135勝という数字は、エースとして非常に優れたものですが、過去に殿堂入りを果たしてきた200勝投手や300勝投手たちと比較すると、どうしても見劣りしてしまうという厳しい見方があります。
要因2:プロ入り時の「空白の一日」事件の存在
野球殿堂の選考要件には「野球に対し誠実であり、スポーツマンシップを体現した者」という一文が含まれています。
この事件が、一部の投票権を持つ野球記者からこの要件に合致しないと判断されている可能性は否定できません。
事実、江川卓が初めて殿堂入り候補者となった1993年の投票では、わずか1票しか得られませんでした。
野球人生においては高く評価されている
しかし、高校・大学時代の実績はまさに不滅のものであり、彼がアマチュア野球の発展に与えた影響は計り知れません。
そのため、今後は「エキスパート表彰」の枠で、アマチュア時代の功績が再評価される形で選出される可能性は残されています。
ライバルであった掛布雅之氏が2025年にエキスパート表彰で殿堂入りを果たしたこともあり、江川氏の選出を待望する声は今もなお根強く存在します。
まとめ:江川卓を最近見ないのは多方面で活躍中だから

- 江川卓氏は現在、野球解説者として精力的に活動している 
- 主に日本テレビの野球中継でその的確な解説を聞くことができる 
- 過去には人気スポーツ番組のキャスターも長年務めていた 
- 近年はYouTuberとしても活動を開始している 
- 公式チャンネル「江川卓のたかされ」で情報を発信中 
- チャンネルでは現役時代の裏話やレジェンド選手との対談が見られる 
- 野球評論家として新聞や雑誌に寄稿することも多い 
- これまでに複数の書籍も出版している 
- 怪物と呼ばれた高校時代の実績は圧巻 
- プロ入り時の空白の一日事件は球界を揺るがした 
- 巨人軍のエースとして1981年に投手五冠を達成 
- 32歳の若さで引退した理由は右肩の故障 
- 現時点では野球殿堂入りはしていない 
- 監督やコーチに就い-ていないのは独自の野球哲学があるため 
- テレビ出演が減ったと感じるのは活動の場が多様化したのが実情 
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